鏡の国の

ryutaさんは、自己と他者の差異の肯定性と否定性に興味がある、とのことですが、僕も他人はみんな否定的にしか現れてこないと思います。あと、差異というのが認識された時点で、それは自分にとって都合の良い差異で、そういう他我は自我の延長なんじゃないの?という差異・他者不可知説にどう決着をつけるのでしょうか。〜中略〜あと、オススメのCDとかあったら教えてください。
http://primitive.sakura.ne.jp/log/200708.html#eid151〜日記の面白さ

漫画「動物のお医者さん」に、鏡に映った自分に対して餌吐き行動(求愛行動)をするインコの話があります。
人Aは自らの眼を通して世界を見ます。眼という器官は世界を「像」として映し出しますが、唯一、自分自身の姿を映すことが出来ません。ですから、Aが自分自身を見るには鏡に映った姿を見る他にないわけです。(ビデオとかカメラとか「水面に写った自分」とかも、ここでは広義の「鏡」とします)この時、Aが鏡に映った自分の姿A'を自分自身だと認識するのは、どのようにして可能でしょうか?
自身を直接見ることの出来ないAは、同一性からA'を自分自身と認識することが不可能です。ではどうすれば良いでしょう?ここで他者Bが登場します。この世界にBという他者が存在するならば、AはBとA’の差異に気付くことができます。(この時の差異とは「直接見える/直接見えない」ということです)この差異に気付くことで、AはA'を「他者ではない者=自分自身」だと認識可能になるわけです。もし、他者Bがこの世界に存在しなければ、Aは「A'こそが他者である」と認識してしまうはずです。鏡に映った自分に求愛するインコの様に。
なんだかよく判らなくなってしまいました。まとめると、

  1. 自我―「我」が「我自身」を認識すると言うこと―が可能であるには、「我」が認識主体としての「我」と認識対象としての「我'」に分割されることが前提となる。
  2. それだけでは、認識主体「我」は認識対象「我'」を他者と認識するだろう。両者の同一性は他者との差異によって初めて認識可能となる。

という感じでしょうか。まあ、2.は付け足しみたいなもので、1.が大事です。「我」が二重性を帯びているということが、それだけで「我」とは無関係に他者が存在可能であることを示すものであり、同時に「我」が不確定的であることを示すものだから。この不確定性は「我」の選択可能性、自他の入替え可能性に繋がるものだと思います。
森下さんの質問に答えると、この時、差異=他者性は「我」にとっての否定性ではなく、肯定性として現れます。そして、自我が在る時点で他者と差異の存在は所与の前提であり、その差異は「見える/見えない」といった絶対的な差異であり、つまり「自己に都合の良い差異」なんてものでは無い、ということです。ただ、そうなると他者の他性も絶対的なもの、ということになります。これは入替え可能性を否定してしまうものですから、矛盾が生じてい、僕的には大変困る。なので、解決すべき問題点あり、という留保を付けておきます。仮に自我と他我の間に連続性を認めたとして、そのベクトルは他我→自我となります。
−−−−−−
自分でもかなり無理矢理だと思います。無理矢理にでも僕が他者=差異を肯定的に捉えたいのは、前にも書いた様に「無神論=差異の忘却」の時代になりつつあると感じるからです。そして「差異の忘却」は、存在の無根拠性に対した時に運命論や超越性を要請してしまうだろうからです。「神無き時代」に運命論や超越性が何を呼び込むのか、僕はそれが結構本気で怖いなあと思っています。

さて、最後に。森下さんへのおすすめですが、CDでは無く漫画です。と言っても、多分森下さんは既に読んでるかもしれないけど。
鏡の国と言えばアリス。アリスと言えば、ということでおすすめするのは

Arms 1 (少年サンデーコミックスワイド版)

Arms 1 (少年サンデーコミックスワイド版)

最近、漫喫で全巻一気読みしたのですが、改めて読むと最初に読んだ時とはまた違った印象を受けて、面白かったです!!もし実写で映画化*1される事なんてあったら、是非是非、主人公の高槻涼を僕がやりたいです!!

*1:実写で、となるとキースシリーズをどうするかっていう問題がでてくるなあ。特にバイオレット。