「空白」という表現

http://primitive.sakura.ne.jp/log/200708.html#eid148
「一元論的おもしろさ」があるのなら、それは直感的に「ある!」と感じる以外には感じることができないだろう。だから「一元論的おもしろさ」について語ることは困難なことだ。語りとは二元論的なものだから。「一元論的おもしろさ」を表現することも、同様に難しい。表現も二元論的であるからだ。この様に、「一元論的おもしろさ」について考える時、何かと不可能性ばかりが際立ってしまう。が、しかし。ここではその可能性を考えてみよう。「一元論的おもしろさ」はどの様に表現可能であるだろうか?
キリスト教世界における神と表現について考えてみよう。キリスト教的な神は、究極の一元論的存在である。その為、キリスト教に於いては神を表現することが禁じられてきた。表現は「表現されるもの」と「表現されたもの」の二元論的図式を産み出すからだ。
神を表現するとしよう。この時、「表現された神」と「本当の神」とは区別されなければならない。でなければ、「人が神を作る」ということになってしまう。つまり、「表現された神」と「本当の神」の間には差異がなければならない、ということになる。しかし、一元論的世界では「差異性」は「否定性」に他ならない。結果、「表現された神」は「本当の神」を示すものでありながら、「本当の神」を否定するものとなってしまうのである。では、キリスト教世界に於いて神は全く表現されずにきたのか?
そんなことはない。
例えばそれは、天から差す一筋の光として表現される。奇蹟の場面に差す一筋の光。不自然なその光の源は描かれない。勿論、その光源は神である。このように、「表現されない(できない)」という方法によって神は表現されてきたのである。
さて、話を「一元論的おもしろさ」に戻そう。「一元論的おもしろさ」も神と同様に「表現されない」という表現方法で表現可能ではないだろうか?「おもしろさ」を構成する為に必要なものを敢て省く、という方法だ。例えば、「おもしろさ」が成立する場である「ヤマ」がない、「おもしろさ」が発生する機制としての「オチ」がない、「おもしろさ」を支える背骨としての「イミ」がない、といった風に。
そう。「やおい」こそ、「一元論的おもしろさ」を体現するものなのである。

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森下さんの該当日記と、最近読み返した本の内容がちょっとリンクしてたのでこんなものを書いて見ました。さて、僕が読んだ本は何でしょう!?コメント欄でどしどし答えて下さいね!正解者には「サブドミナントマイナー特製デスクトップ壁紙」を差し上げます!!!

森下さんが言うように、「一元論的おもしろさ」が「他者に拠らない自己」、つまり独我論につながって行くのだとしたら・・・。ご存知のように、僕は少し前に独我論に対する否定的な日記を書いています。独我論の「我」は二重性を帯びていて矛盾している、といった内容です。僕は基本的に「他者によって自己が作られる」という立場で、自己と他者との差異性が目下の興味なのです。その差異性は否定性を帯びているのか、肯定性を帯びているのか、みたいな。でも、僕が呑気にそんなことを考えているうちに、世界はっていうかインターネット界隈は「差異の忘却」の時代になっているみたいです。これも日記に書きました。僕はこの「差異の忘却」は「孤独を恐れる独我論」だと思います。名付けて「恐がり独我論」です。某ブログは関係ありません。
このような状況において、独我論ありやなしや?ということを考えるのは意味のあることかもしれません。「一元論的おもしろさ」についてはもっと考える価値があると思います。