ホントはリンクとかについて書くつもりだったの。

他者と関係する、ということはどういうことか。
他者とは絶対的に自己とは同化され得ないもの、所有され得ないものとしてある。つまり、他者の持つ他者性とは自己の宇宙内で相対化できない絶対の差異であり、その本性は自己の宇宙への現前からの逃避である、と言える。関係するということはその存在を自己の宇宙内へ定位させることであるから、他者と積極的に関係するにはその他者性を否定する他にない。
では、否定された他者性はどこへ行くのか。他者性の否定とはその消去を意味しない。他者性はどこかに保存されなければならない。この時、他者性の本性である逃避の運動は、その差異を自己に同化されてしまった他者の更なる差異、つまり「他者の他者」の中に送り出すのである。他者と関係するということは、他者を「他者の他者」へ置き換えることによって可能となるのである。
さて、甚だ荒い議論ではあるが、この議論を目下の興味であるところのWEB日記の問題系へ送り出してみよう。
WEB日記を書く、という行為はまさに他者と関係しようとする行為に他ならない。したがって、自己=書き手 と 他者=読者 の差異は「他者の他者」へと置き換えられる。この時、読者が書き手でもある場合、「他者の他者」は「読者の読者」ということになる。
さて、この置き換えは無限に連鎖することによってのみ有効なものだが、実際にはそのような無限性は確保され得ない。したがって、そのような無限性を代替するような存在、つまり、絶対の差異を引き受ける存在、自己が絶対に関係し得ない存在、が要請されることになる。それが「絶対的他者」であり、自己に対する「外部」である。「外部」は置き換えの連鎖による「宇宙」の集合が、全体性を持った「世界」へと定位される際の前提条件である。
再び、WEB日記へと話を戻そう。WEB日記も読者を「読者の読者」へと置き換えることにより連鎖していく。この連鎖によるWEB日記の集合を全体性を持った「WEB日記界」へと定位することは可能だろうか。その際もやはり「外部」の存在が前提条件となるだろう。そして、その「外部」とは「絶対的読者」、つまり書き手が絶対に読み得ない存在、ということになる。
さあ、そんな存在があり得るのだろうか?ここからどんな結論が導かれ得るだろうか?
思い出して欲しい。「僕ら」は「神様なんか信じない僕ら」であることを。僕らはここで「神」の召還なんか認めない。勿論、テクノロジーが「神」を代替するなんてことも!