故意に恋焦がれ請いに泣く

恋について考えていたのですが、さっぱりわからないので鯉について書きます−という日記を書きたかったのですが、鯉の方もさっぱりわからないので、やっぱり恋について書きます。
恋というものを考える時にどうしても近寄れない領域があって、ひとつは性(=生)の問題です。で、性のことを横に置いたとしても、恋を突き詰めて考えていくと結局は自分の生の問題に辿り着いてしまいます。
「何故、あの娘のことを好きなのか?」という問いには答えが存在しません。それは「何故、自分は存在するのか?」という存在の無根拠性に結びつくからです。つまり、恋のコミュニケーション的な側面は幾らでも解体することが可能ですが、最後に残る生、他者(=あの娘)との同一化を願う(=好きな)自己という存在、は解体不可能だということです。結局、自己の存在ということに関しては、「SEXしてー!」とか「腹減ったー!」といった実感の方が強く、その実感の前では「思う故に在り」みたいな観念的な根拠は後退せざるを得ない、ということだと思うのです。
「女は強いなあ!」と思うのは、その無根拠性に対する耐性の強さからです。男は無根拠性の前に立ち竦むことしかできません。だから観念に逃げるのです。「あたしのどこが好き?」―女は無邪気に訊ねますが、男はその問いに震え上がります。「あ、明るい所?」等となんとか返しますが、心の中では「嘘だ!」と叫んでいます。「じゃあ、お前は俺のどこが好きなんだよ?」―質問返しに女は即答します。
「わかんないけど、好きなんだからしょうがないじゃん!」
好きなんだからしょうがない―この開き直りの境地に男はどうしても辿り着けません。女のこの言葉を聞いて、初めて男は恋を許されるのです。そう、恋愛に於いて許可を与えるのは常に女です。だから男は「俺達って付き合ってるの?」*1みたいな間の抜けた台詞を口走ってしまうのです。
話を僕ら"text-psycho"の問題に戻してみましょう。書き手が自分の書いた文章に恋をするなら、その許可は誰が与えるのでしょうか?タイトルの横の星が「文章からの許可」であると考えるなら、僕らもはてなスターを肯定的に捉えることができそうです。但し、それには「文章とは書き手のものか?読者のものか?」という問いを避けて通れません。これは古くて新しい命題です。今後はそのことについて考えて行きたいです。

*1:他の例として、「あの娘、僕がロングシュート決めたらどんな顔するだろう?」があります。嘘です。