天気読み

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製作者に対する『コンテンツの一次的な面白さで勝負していただきたい』『二次的な面白さを陰で(しかし堂々と)お膳立てすることは、彼らの奢り、勘違いとしか思えない』『すべきことは「お約束」「ベタ」の追求である』という松田さんの言葉には、僕も頷くところである。ベタの追求とはマンネリを意味するものではない、という点においても全くその通りだと思う。表面的な部分では、僕の考えもほぼ同じだと言って良い。だがしかし、僕は根本的な部分で松田さんの意見に賛成することができない。思考の立脚点において彼と僕は明らかに正反対であるのだ。
『「ベタ」の追求とはイデアの追求である』『ベタとは、この世に存在しないイデアである』――確かにベタとは単なる様式ではない。ベタとは様式に則ってパターンを繰り返し、何かに辿り着こうとする行為である。しかし、その「何か」をイデア―理性でのみ認識し得る本質―とする松田さんに対し、僕は断固としてNO!と言わざるを得ない。
どういうことか?まずは、松田さんの考え方がどういうものかを説明しよう。イデアの存在を認めるということは、即ち「この世」の外部の存在を認めることである。この考え方においては、「この世」はその「外部」に在る存在に拠って規定可能なものとなり、万物はただ在るだけでその存在を認められる。つまりは主知主義につながり、唯物論につながる。この考え方において、全体性とは「この世」をすっぽりと覆うものであり、個が全体性へ回帰するのと同様に「この世」は「外部」へと回帰する。つまりは死後の世界につながり、終末思想につながる。
一方、僕はイデアの存在を認めない。「この世」の外部の存在を認めない。「この世」はそれ自体で「存在しようとする」存在である。この考え方において「この世」を規定しようとした場合、規定する存在もまた規定される「この世」の一部であるという矛盾が生じ、よって「この世」は規定不能であるとされる。万物もまたただ在るだけではその存在を認めることはできない。つまりは主意主義につながり、唯我論につながる。この考え方において、全体性とは「部分」に内在するものであり、全体性への回帰とは自己への回帰、つまりは個の完結である。同様に、「この世」が回帰する場所も「この世」自身にしかなく、「この世」は存在しようとする限りにおいて無限である。では、この考え方において、ベタの追求によって辿り着こうとすべきだとされる「何か」とはなにか?それは事象の内部に宿る本質、すなわちアウラである。僕は現代が喪失したアウラをベタにによって奪還したいのだ。
僕は、松田さんより自分の考え方のほうが優れてるとか、正しい、ということを言いたい訳ではない。世紀末を通過した現代の「神様なんか信じない」僕らがイデアを追求するのも、データベース化した現代の「電子の妖精」である僕らがアウラを求めるのも、同じ様に困難で救われない行為である。その救われなさにおいて、松田さんと僕は繋がってると言えるかもしれない。問題は考え方の違いではなく、考え方の違う両者が表面的には同じ様に見えることである。思考の選択によって捉え得る「この世」の幅は、間違いなく狭くなっている。そしてそれは、思考の死を意味するのである。
この状況は打破されねばならない。打破されることを願って、松田さんの次の更新を待ちたい。