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http://primitive.sakura.ne.jp/sb/sb.cgi?eid=257#sequel
色々と反論したい点はある。けど、「お前がそういう風に読んじゃうのは自覚的だからだろ?」という指摘は正しい。僕が実際の愛の現場で自覚的かどうかは別として、アニオタが非オタの…の文章を読んだ時の僕は多分に自覚的だった。それは間違いない。

そんなわけで、愛の事実は、判断とは最も遠いところにあると思うんです。どっちが上等で、どっちが下等でみたいな判断は必要ない。そういう事実の下にあの文章はあると思います。あの文章の中に「こんなにアニメを愛してるのに、俺はその全てを理解できない…その素晴らしさ全てを伝えられない…でも、それを乗り越えて、やっぱり俺はアニメを愛してる!」みたいな距離の発見や反省、自覚を読み取っちゃうのは、読む人が自覚的な価値観で読んでるからだと思うよ。いわゆる「天然」的な読み方だって当然できるわけじゃん?天然読みをするなら、そんな距離とか否定性とかはあの文章からは読めないよ。僕は、そういう自覚的読みとか天然読みとか、読み方によってどうとでもなる意味の手前に"どっちが上位でどっちが下位とか決められない!"ってことが現れてると思います。
http://primitive.sakura.ne.jp/sb/sb.cgi?eid=257#sequel

森下さんの日記を読んで、僕はある友人に言われた言葉を思い出した。それは「メタが存在するのは既に前提なんだから、メタを描写するのは負けなんですよ」と言う言葉だ。友人の真意が何処にあったのかは判らないが、この言葉を聞いた直後の僕は「ベタに生きろ」というメッセージだと受け取った。が、しばらくして「それは違うな」と気付いた。これは「生」という事実の前ではメタとかベタなんてのは無意味なものである、ということなんだ、と。それからしばらくの間、この言葉は僕(特に書き手としての僕)にとってひとつの壁だった。この壁を僕がどう乗り越えたか?簡単なことだ。「メタが存在するのは既に前提なんだから、メタを描写するのは負け」―この言葉は正しい。が、この言葉もまたメタ的なものではないだろうか?つまり自己矛盾に陥っているのではないか?そんな言葉に振り回されてたまるか―という訳だ。
話を戻そう。僕が先日の日記を書いたのはhttp://primitive.sakura.ne.jp/sb/sb.cgi?eid=256#sequelを読んで、大筋で同意しながらひとつの疑問を抱いたから。それは「じゃあ、何故森下さんはコピペ改変ではなくこんな日記を書いたのだろう?」ってことだ。僕はこの点に前述した自己矛盾に似たものを感じる。
「事実」とか「実感」とかってのは非常に厄介な代物だ。それらはあらゆる「意味」の手前にあるからだ。僕はそのことを「正しい」と感じながらも、やっぱり抗いたい。だってその方が面白いから。真面目に言うとそれは言説の死を意味するから。そして、その突破口は今のところ「「事実が意味の手前にある」って言葉もまた意味的だよね?」ってことくらいしか今の僕には思いつかない。