I don't know…

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「愛」ってなんでしょうかね?大船もしくはryutaと呼ばれる人は設定上では永遠の14歳女子中学生なので「えーわかんなーい!」とでも言っておきたいところですが、それじゃ話が進みませんね。このダイアリーっぽい言い方をすれば「対象の持つ他者性を自己に同一化しようとする欲望」って感じでしょうか?色々すっ飛ばした感は否めませんが、しかし、あらゆる意味で「ひとつになりたい!」というのは「愛」の根源的な叫びと言えると思います。
それでは、あなたが「愛する」理由は何でしょうか?
この問いは非常に難しいですね。時として僕らは「愛の理由」を挙げなければならない場面に出くわします。しかし決まって上手く話すことが出来ません。「笑顔が可愛い」「気を遣わずに済む」「笑いのツボが一緒」等々・・・僕らは必死に理由を挙げますが、挙げた端から僕らの直感はそれらが嘘であることを指摘します。そりゃそうですよ。それらは愛というものの表層を描写したに過ぎないのだから。愛の本質的な理由はそういう言語化できる領域には存在しません。「これ」と指示できるようなものではないのです。何故なら僕らが同一化したいと欲する「他者性」とは本質的に絶対の差異性として存在するものだからです。だから僕らはそれを認識することが出来ません。愛の本質は僕らの認識の埒外にあるということになります。そう、愛とはしようと思ってできるもではありません。「気が付いたら落ちているもの」なのです。
さて、ここに「愛」の自己否定性を見て取ることができます。僕らは対象を同一化したいと欲望します。が、その欲望する対象の本質は僕らの認識領域外に存在します。つまり、愛という欲望は決して満足されることが無いということになります。そして、結果的に「愛する」という行為は、対象と自己との距離を確認する行為になってしまう・・・。しかし、だからこそ愛は尊いと言えるかも知れません。愛の肯定性とはそういった自己否定性を乗り越えたところに生まれるものだと思います。
アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本は愛というものを見事に表した良い文章だと思います。アニオタの彼は非オタの彼女を愛するが故に10本のアニメを選らばずにいられません。しかし必ず失敗します。それはオタクの排他性とかそういったものが理由ではありません。愛だからこそ失敗するのです。と同時に、きっと彼は10本を選ぶ作業に於いてアニメと自分との距離をも確認することになる筈です。それも愛だからこそ、なのです。この文章はそういった愛の不可能性・自己否定性に貫かれており、非常に素晴らしいと思います。
しかし!この文章のコピペ改変達にはそういった素晴らしさを全く感じません。「愛」を感じません。むしろ気持ち悪さを感じます。何故でしょうか?それはこれらのコピペが元の文章の表面的な部分しかなぞっていないからです。いや、元来コピペの本質はそこにあるのであり、それによって表現されるものというのもあることは認めます。しかし、今回は愛の肯定性だけが残ってしまい、気持ち悪く感じてしまうのです。これは「みんなちがって、みんないい」や「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉に感じる気持ち悪さと同質です。存在の無根拠性を乗り越えずに吐かれるこれらの言葉が無意味であるように、自己否定性を乗り越えない愛も、また無意味なものなのです。と言うか、それは愛では無い!