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http://primitive.sakura.ne.jp/sb/sb.cgi?eid=211
「行為」で判り難ければ「体験」と言えばどうだろう?
やはり、このサイトのどこにも「価値」なんて無い。書き手視点から言えば、「価値」は日記を書くという「体験」にこそ存在する。翻って読者の視点から言えば、日記を読むという「体験」にこそ「価値」は宿るのではないか?
ここに、日記を通して書き手と読者は繋がる。しかし、それは両者の「体験」が同化することを意味しない。僕は書き手と読者の幸せな邂逅を断念する。寧ろすれ違うことを望む。「完全な相互理解」なるものが夢に過ぎないことを知っている。ディスコミュニケーションもコミュニケーションであると信じている。
同じものを見て違う言葉で表現するのと同様に、違うものを見ながら同じ言葉で話すことが出来るはずだ。そして、それも「理解」の内なのだと思う。僕と森下さんのすれ違いは、このことを逆説的に証明していると考えられないだろうか?
大事なことを二回言おう。文字に「価値」なんて宿らない。言葉がそれ自体で持つ「力」を認めない。読者は文章を通して書き手を知り得ない。書き手は文章を通して読者に語り得ない。文章を通して向き合うのは、常に自分自身である。
僕はコミュニケーションを諦めたわけではない。寧ろコミュニケーションの未来を信じている。